愛・平和・喜び&旅写真

世界のベストセラーバイブルから福音・安ぎを学び,ブログを綴ります。

2019年12月

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 パンもパン種によりおいしくなる

「・・・そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意をうながされたのは、
パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのこと
だと悟った。」 
(マタイ 16章 12節より)

この記事の前に、キリストは4千人の群衆にパンと魚を与えた事が書か
れている。このパン種に関してこれを例にして「彼らのパン種に気を付け
ろ」と言った。パン種とはパンをふくらませたり、保存したりするもの。

これは神の国を成長させるプラス的な考えと、物を腐敗させる要素でもある。
弟子たちはパンのことだと誤解していたが、キリストが説明したのはパン種
そのものではなく、本当の意味を説明した。すなわち、

ファリサイ派とサドカイ派の教えが危ないということである。サドカイ派は
ユダヤ教のファリサイ派と並んで大きな派閥勢力である。彼らは、祭司や
上流階級を代表し、霊や天使、復活を否定していると言われている。

いずれにしろ、キリストを十字架に追いやった勢力である。キリストが言う
には彼らの宗派の教えは危ない。要は聖書の本当の教えを自分たちに都
合の良いように勝手に解釈して、民衆に押し付けていた。

それ以上にキリストをメシアとは認めず、死に至るまで迫害し、罪を犯し続け
てきた。ここでは詳しくは書かれていないが、23章にはものすごい勢いで彼
らを追及している場面が出て来る。

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「・・・この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、
わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と
叫んだ。・・・イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊の

ところにしか遣わされていない』とお答えになった。・・・『主よ、どうか
お助けください』と言った。イエスが、『子供たちのパンを取って子犬
にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっと

もです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』
そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あな
たの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた。」

 (マタイ 15章 21‐28節より)


この箇所はカナンの異邦の女が娘の病気をいやしてほしいと願った記事。
キリストは心底では同情しながら「今は同胞のイスラエルの民を優先的に
いやしている」と答えると、女は諦めずにしつこいほど、キリストに願った。

「求めよさらば与えられん」である。その後のキリストの例えが素晴らしく、
「子犬たちのパンを取って子犬にやってはいけない」とウイットにとんだ返事
である。女はこれにひるまず、「食卓から落ちるパン屑はいただく」と答えた。

キリストはこれに感銘して、例外として娘をいやした。こんな話は過去に
「ローマの兵隊の部下」「飛び込みの婦人病の女」がいやされる話などに
出て来ている。キリストの福音は全世界に発せられるものだから不思議

ではない。この後には大勢の病人をいやす記事が出て来るので、それに
対処するだけでも大変な仕事である。群衆は多くの人々がいやさるのを
見て、イスラエルの神を賛美したとある。この時点で隠れ信徒が多くいた。

「・・・イエスはお答えになった。『わたしの天の父がお植えにならなかった
木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人
の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも

穴に落ちてしまう。』・・・イエスは言われた『あなたがたもまだ悟らないのか。
すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。
しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を

汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から
出て来るからである。これこそ人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をして
も、そのことは人を汚すものではない。』」 
(マタイ 15章 10‐20より)

ファリサイ派の人たちの行為について更に具体的に例えでキリストは語った。
「口から出て来るものが人を汚す。盲人を例えに出した。これは決して盲人へ
の偏見・差別ではなく事実を述べた。電車のホームでこんな事をすれば

非常に危なく、二人とも線路に落ちる危険があるのは目に見えた事実である。
さらに、口から入り、排せつされるのは決して人を汚さない。自然な生理現象。
これをもっと言えばユダヤ教など食べ物について豚を食べるのを禁じている。

キリストはそんな小さな事には全然関心がなく、むしろそんな事にこだわるよ
り、口から出て来る言葉や行為などが人を汚すと言った。前日に書いたように、
旧約の箴言には「口数が多ければ罪が避けられない」(10‐19)とある。

まさに「口は禍の元」というように、口から出て来るものは十戒にも書いてある
ような「殺意、姦淫、盗みなど」であり、ファリサイ派の人たちはそうであった。彼
らは「神が植えなかった木なので、いずれは抜き取られる、すなわち、最後には

悪の裁きを受ける」ともいう。ファリサイ派の人たち(全部とは言わないが一部の
者)はキリストを十字架にかけ、殺してしまう事に熱心で、最後に実際十字架に
架けて殺す。いわばメシアとは絶対に認めず、神に反逆する大罪を犯した。

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「ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスの
もとへ来て言った。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝
えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。』

そこで、イエスはお答えになった。『なぜ、あなたたちも自分の言い
伝えのために、神の掟を破っているのか。・・・自分の言い伝えの
ために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、

あなたたちのことを見事に預言したものだ。「この民は口先では
わたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒め
を教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」』」

 (マタイ 15章 1‐9節より)

ファリサイ派とはユダヤ教の一派でキリストの時代にはサドカイ派と
並んで民衆に大きな影響力を持っていた。律法学者は多くファリサイ
派に属していた。律法を守ることで救われるという原理主義者でもある。

自分たちがその主義で生きていくのは自由だが、自分以外の特に「手を
洗わずに食事をする」という枝葉のことでケチをつけ、ことごとくキリストの
言動を非難し、宣教の邪魔をし、最後には十字架にかける大罪を犯した。

後にもっときつい反論(23章)がキリストからされるが、今回は序の口で、
彼らの言動は、旧約のイザヤが預言していた。「神を口先で敬うが、心は
離れ、人間の戒めを教え、むなしく神を形だけで敬っている」まさに

偽善者である。一度には書くのは長いので、今回はここまでで終わるが、
この後には群衆に対して「食べ物と排せつ」を例にし、口から入れる食物や
排せつは問題ないが、口から出てくる言葉が人を悪へ導くと、旧約箴言にも
口はわざわいのもとと説いている。

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   湖上の出来事 イメージ  

「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、
その間に群衆を解散させられた。祈るためにひとり山にお登り
になった。・・・舟は・・・逆風のために波に悩まされていた。


夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに
行かれた。弟子たちは、・・・『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖の
あまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。

『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』・・・ペトロは舟
から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い
風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けて

ください』と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰
の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に
乗り込むと、風は静まった。・・・『本当にあなたは神の子です』」

 (マタイ 14章 32‐33節より)

5千人への給食の後、弟子たちを先に舟に乗せ、キリスト一人で
山に登り、父なる神への祈りにより、疲れを癒し力を得たのだろう。
夜が明けるころ、キリストは荒れる湖の上を歩き舟に近づいた。

弟子たちはキリストが5千人への給食や、病気をいやすのを見ても
世の救い主メシアとは信じていないので、湖の上を歩くのを見て怖
がった。さらにペトロは自分も歩けると思ったが沈みかけ、

「主よ、助けてください」と叫んだ。キリストにとってまだまだ自分の
ことを理解していない弟子を憐み「信仰の薄い者よ」とだけ言うと、
弟子たちは「あなたは神の子です」と言わずにはおれなかった。

これでもって弟子たちがすべて理解したとはいえず、3度の予告が
ありながら、十字架と復活があっても信じなかった。これが人全体
の姿を現している。「神にはできるが、人にはできない」である。


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 キリスト誕生 イメージ

「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。
この子は自分の民を罪から救うからである。」と10月28日
の記事に書いたが、それ以上にクリスマスの意味は深い。

以下にきょうクリスマスに際してそんなに難しくはなくできるだけ
簡単に分かりやすく書いて行きたい。クリスマスとはキリストの
誕生を祝うお祭りと日本では理解され、ハロウイィンやバレンタ

インデーと同じように楽しく騒ぎ、また商戦のよい目標とされ、
ばか騒ぎに近いイベントと割り切られている。欧米ではこの
日は祝日とされ静かに過ごしている。

聖書にはキリストが12月25日に生まれたとは一言も書いて
いない。これは後のカトリック教会が古代ローマのミトラ教
(冬至の祭りで太陽を拝む)の行事を真似て祝うようになった

と言う説もある。とすると、ちゃっかりと利用し、結果的に
それがずっと世界中に広まり宣教の目的を果たしている。
Xマスはキリスト教の教祖の誕生を祝う行事だけではない。

なぜならXマスはキリスト教は宗教と言うより全人類に対する
メッセージであり、目出度い日である。「民を罪から救う」と
あるように、単に生まれた事だけで救われたのではない。

讃美歌で「捕虜を放つ」とあるように、捕虜は誰かに囚われ
奴隷状態になっている。誰がと言うと悪の親玉である「罪」の
捕虜となり、奴隷状態から解放されて、自由の身になった。

この罪について語るとなると、長い説明になるが、人類は皆
罪の奴隷であり、原罪を持っている。「罪」とは法律上の罪では
なく創造者・神に対する罪であるから、区別する必要はなく人類

皆罪人である。パウロが「正しい者はいない。一人もいない。
・・・善を行う者はいない。ただの一人もいない。・・・」と旧約聖書
から引用して記している。「罪(悪の親玉)が支払う報酬は死です。

しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の
命なのです」と記している。人は罪の奴隷だから、自分の力では
罪と死から免れない。神の子キリストの十字架の死と復活による

しか救われないと言っている。ここまでは早朝のラジオでは、ある
キリスト団体が言っているが、罪人・罪人と自虐的・ネガティブな事
の繰り返しでキリストの贖罪によって救われたと同じ事しか言わない。

日本のキリスト信徒は人口の1%しかいない。高齢化が続くとより
教勢が伸びないと悲観的になっている。聖書にはこれ以上にもっと
すごい事が書かれているのに・・・ビッグサンデークリスチャンが多い。

ガラテア書には「キリストはわたしたちの平和であります。二つの
ものを一つにし、御自分の肉(十字架と復活)において敵意という
隔ての壁を取り壊し・・・」と書いている。二つのものとは神と人

でもあり、人と人との間の憎しみや敵意をも取り壊したとも言える。
丁度ベルリンの東西の壁が打ち壊されたように。人類が平和を
実現できるように。・・・それから人は皆死から免れない。

それをパウロは「罪と言う悪の親玉の支払う報酬は死であるが神の
賜物は永遠の命」と言っている。「自分は神など信じない、死も怖く
ない」という人もいるが、それが本音とは思えない。本当は死から

逃げている。最後に簡単に書いておくと、マタイ書24章にこの世の
終わりが記されているが、いつ来るかは神以外に知らない。また、
聖書の最後の「ヨハネの黙示録」には終末の様子が書かれている。


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「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退か
れた。・・・大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。夕方
になったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『・・・群衆を解散させ

てください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。』イエスは
言われた。『行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさ
い。』弟子たちは言った。『ここにはパン五つと魚二匹しかありません。』

イエスは、『それをここに持って来なさい。』と言い、群衆には草の上に座る
ようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで
賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。

すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の
籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどで
あった。」  
(マタイ 14章 14‐21節より)

この箇所は大きな奇跡物語である。5千人もの男に女子供を加えると1万人
を超えるだろう。そんな群集にパン5個と魚2匹で満腹するはずはない。普通
に考えればそうなる。だからこれはあることを伝えるために事実そのままで

なしに、象徴的に記されていると言う人もある。確かに物理的にも無理な話で
ある。しかし、多くの病人をいやした奇跡と比べると何も驚く話ではない。
事実として少ない食材で多くの人々が満腹したとしても、「神にはできる。」

洗礼者ヨハネを助けなかったのに、ここでは大きな奇跡を行った。それは
キリストの愛の福音の証しでもある。彼らは満腹以上に心も満たされたで
あろう。屑でさえ12の籠いっぱいもあったと神の溢れる恵みを記している。

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 ヨハネ イメージ
「そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。
『あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡
を行う力が彼に働いている。』実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻

ヘロディアのことでヨハネを捕らえ縛り、牢に入れていた。ヨハネが、
『あの女と結婚するすることは律法で許されていない』とヘロデに言った
からである。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。

人々がヨハネを預言者と思っていたからである。ところで、ヘロデの誕生
日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。それ
で彼は娘に、『願うものは何でもやろう』と誓って約束した。

すると、娘は母親に唆されて、『洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場
でください』と言った。王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の
手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首を

はねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母
親に持って行った。それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取っ
て葬り、イエスのところへ行って報告した。」

 (マタイ 14章 1‐12節より)

きょうは、この14章を全文掲載した。殺されたヨハネには悪いが、非常に
ドラマチックな場面であるからである。マタイ書がなぜ詳しく書いているか
よく分からないが、自分なりに考えると、前項で書いた家族の話に関連し、


ヘロデが民衆の手前、処刑を躊躇していたがやはり、やはり血縁関係を
重視し、ヘロディアとその娘を大事にしたいために、ヨハネの首をはねた。
それ以前に、ヨハネから兄弟の妻ヘロディアとの結婚は律法で禁じている

と警告したがためにヘロデはヨハネを投獄していた。そして「あのキリストは
ヨハネが復活した」と見当違いの考えをしていた。ルカ書23章にはヘロデが
キリストの裁判にさいし、ここでも野次馬根性でキリストに会い、沈黙されると

逆ギレして、キリストの処刑賛成者と同じように下品な言葉であざけり、侮辱
した。なお、ヨハネのことは11/1と12/9に投稿している。そこで映画にもなっ
たと書いたが、確かに1965年の「偉大な生涯の物語」にヨハネが出てくる。

さて、これも自分なりの推測だが、キリストはヨハネを救う事も出来る力を持っ
ていたはずだが、ヨハネの弟子が報告にきたとき、キリストは何も言わず、
人里離れた所に退いたと書いてある。一見冷たい態度のようだが、

キリストは神の意思(御心・摂理)によってのみ行動すると言っているように、
ここは神の啓示がなかったのだろう。この後、様々な活動をし、最後は十字架
にかかり、復活する生涯を送ることになる。

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                 ナザレと現在の街イメージ

「イエスは・・・故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、
人々は驚いて言った。『この人は、このような知恵と奇跡を行う
力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。

母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダでは
ないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。
この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。』

このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、『預言者が
敬われないのは、その故郷、家族の間だけである』と言い人々
が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」
 (マタイ 13章 53‐58節より)

キリストの故郷はガリラヤ湖の西にある街であるナザレという所。
故郷に帰って来たキリストを、噂により、その知恵の深さ、奇跡の
数々を知っていながら、普通に接するというより歓迎もしなかった。

キリストは歓迎されることより、その不信仰ぶりに内心落胆し、ここ
では奇跡を行わなかった。病人もいたであろうが、いやしの業を行
わなかった。これは不親切とか冷たいというより、相手のニーズに

応えるのが愛であるから、それを積極的に求めなかった彼らに対し、
余計なお節介をしなかった。彼らが歓迎する事よりもキリストを神の
子として信仰を持っていたならキリストの態度は違ったであろう。

キリストはここの人々を名指しで非難するというより、預言者の例を
出して、昔からそうであるとのたとえを話して、それこそ「足のちりを
払って」(12/2記事)争わずに黙って去ったのであろう。これも愛。

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、
そのまま隠しておき、喜んびながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その
畑を買う。また。天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を

探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり
売り払い、それを買う。また、天の国は・・・網が湖に投げ降ろされ、いろいろ
な魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、

良いものは器に入れ、悪い者は投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使た
ちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投
げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 (マタイ 13章 44‐50節より)

この箇所は三つの話からなり、1の話と2の話は共通点があるが、3の話は少し
ニュアンスが違う。いずれも、天の国は良いものであり、最高に価値がある。
1、2の話は以前書いた「神と富」の話で、富が絶対いけないのではなく、

富を神と同等に偶像崇拝することはできないという意味であった。ここではまさに
そのことがたとえの中に入っている。宝や真珠は全面否定しているのではなく、
価値あるものと評価している。ただし、その後が大きな問題提起である。

良いものと悪いものを世の終わりに選り分けられる。福音が信仰でのみ世の救いと
なると言っても何でもかんでも許されることはない。はっきりと悪なるものは裁かれる
ときつい調子で記されている。彼らは仏教では閻魔によって裁かれると言うように、

「燃え盛る炉の中に投げ込まれ、そこで泣きわめき、歯ぎしりする」と勧善懲悪が描か
れている。いわば、これは神の一人子がこの世に来て徹底的に神の義を通すため、
天なる神の国はきっちりけじめがつけられる。とのメッセージである。

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 キリストは世の光と言われている

「・・・弟子たちはイエスに近寄って、『なぜ、あの人たちにはたとえを
用いてお話しになるのですか』と言った。『あなたがたには天の国の
秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない・・」

・・・彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、
理解できないからからである。』」
 (マタイ 13章 10‐17節より抜粋)

キリストはマタイ書ではほとんどの話をたとえで話した。弟子たちが聞くと
「あなたたちは、秘密を悟ることが出来るが、あの人たちに福音をストレー
トに語っても理解できないからだ」と答えたが、実は弟子たちも同じである。


弟子(使徒)たちも福音の真の意味を悟るのは後々のことである。秘密を
悟るのはキリスト昇天後のペンテコステ(五旬節)の後であろう。たとえで
話すとは、旧約のイザヤ書に書かれている通りであると説明する。

これも昔から予告(預言)されていた。「理解できないから」とは逆に言えば、
天のことをストレートに話せば誰も理解できないから、出来るだけ多くの人
にも福音が分かるようにとたとえで話し、いやしなどの愛の行動で示した。

上から目線で難しい理論や掟を語りたがるユダヤ教の指導者への皮肉でも
あろう。また、福音は今急に知らされるのではなく、旧約の時代から預言され
ていた。その預言を実現(成就ともいう)するためにもキリストが来た。

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 花も咲き乱れ美しい

「・・・ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、
あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にも
なった。耳のある者は聞きなさい。」
 (マタイ 13章 8‐9節)

ここ13章は延々と種を蒔く人の話を例えで記しているが、長い
ので最後の部分だけにした。前半は①「道端に落ちた種」②「石
地に蒔いた種」③「茨の間に蒔いた種」とある。それぞれが意味

深い内容だが、最後の例え「良い土地に落ちた種」は、よい実を
結び、100倍、60倍、30倍にもなったとある。この13章全体は
人生のあり方も記されている。①の場合道端に落ちた種(福音)

は鳥に食べられた。宣教をしても直ぐに鳥に食べられるようでは
無駄になる。これは「熱しやすく冷めやすい」生き方にも例えられる。
教会に来て福音に触れ、熱心に大きな働きは一時的にはするが

すぐに冷めてやがて去っていく場合のこと。②は石地に蒔いた場合、
そこは土が浅いので、直ぐに芽は出るが、日が昇ると焼けて直ぐに
枯れてしまう。物事を深く考えずに何でもすぐに行動はするが、

計画が甘く先が見通せないので失敗し、これも教会に根付かない。
③の茨に蒔いた種とは、多くの人が経験している。好奇心とか欲が
多過ぎて、何でもやりたくて手を出してしまうが、生活が乱れ

収拾がつかなくなり、他人にも迷惑をかける。その上、自分は熱心
になり過ぎて、それに気づかないから厄介な話である。最後の良い
土地に落ちたとは、合理的で、信仰的、理にかなった生き方。

宣教をすると、100倍・・・と驚くほどの結果が出てくる。では良い土地
とはどうして見分けられるか。人には無理である。熱心な信仰が必要と
言われるが、それでは行動が先で、行為義認となり、信仰義認を説く

聖書の教えとは違い、原理主義に陥りやすい。この良い土地に蒔かれ
た種が100倍にも成長することを理解するのは容易ではない。しかし、
「人にはできないが、神には出来る」ととると、気持ちが安らぐ。

福音とは直ぐに枯れるものではなく、すごいパワーがある。無限にある
とも言える。なお、①~③は個々のケースの人がいると早合点しない。
一人の人の中にそれぞれのケースが共存している。

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「イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、
話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに
『御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立って

おられます』と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。
『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』
そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたし

の母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を
行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。』」

 (マタイ 12章 46‐50節より)

ここの箇所は家族関係で最も微妙な個所でもある。だから筆者は
実名を出してもいいのに、「ある人が言った」とその人のプライバシー
を守り匿名にしているのは、その人に対する非難がないように気を

遣っている。かなり気をつけながら記している。下手をすれば大きな
誤解を与えることになるからである。古今を問わず、家族関係は原則
大事にすることが当たり前の常識である。キリストは一見それを覆す

ような言葉を発している。つまり、家族関係は二の次で、神に繋がる者、
すなわち、信仰仲間こそが本当の家族であると、誤解をおそれず
断言している。この箇所で、つまずく者もいるだろう。では、なぜ自分

の母、兄弟を目の前にして、冷たいと思われる言葉を発したのか。
多分、母や兄弟たちは自分の身内であるキリストに会いたいとの
単純な愛情と思いからこの場にいたのだろう。

優先的に会って、話し相手になってくれると期待もしていたであろう。
ところが、キリストは「わたしの母とはだれか」と取りようではきつい言
い方をしている。「肉親より神の御心を行う人が、本当の家族」と。

これも理にかなった、信仰的な答えである。いうならば、母も兄弟も
神を信じているならば、文句なしに本当の家族だから何ら問題はない。
別の箇所(ヨハネ19‐26)でキリストが母マリアに対し「婦人よ」と

他人みたいな言い方をしている場面がある。これは、「婦人よ」との
言い方は普通の言い方で蔑視している訳ではないと注釈している人も
いる。後に聖母マリアと呼ばれるようにもなった。

なお、特に偶像崇拝禁止を徹底しているプロテスタント教会と違い、
カトリック教会では、至る所にマリア像がおいてある。余談になるが、
作者遠藤周作は「キリスト教は厳しい父的な教えがあるので、

母的な優しさを求めてマリアに親しみを感じている。偶像崇拝ではない」
と彼独特の信仰論を述べている。既存のキリスト教会も難しい話ばかり
せずに反省し、福音の本当の喜びを伝える必要がある。

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「何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、『先生、しるしを見せて
ください』と言った。イエスはお答えになった。『よこしまで神に背いた時代の者
たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、・・・つまり、ヨナが

三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいる
ことになる。ニネベの人たちは裁きの時、・・・一緒に立ち上がり、彼らを罪に
定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。

ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の
者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの
知恵を聞くために、・・・来たからでである。ここに、ソロモンにまさるものがある。』」

 (マタイ 12章 38‐42節より)

またまたキリストを非難し続ける律法学者・ファリサイ派の人たちがしるしを求めた。
何のしるしなのか。多分メシアのしるしであろう。今までのキリストの言動を見てきた
ら愚問であり、何とかキリストに恥をかかせ、いじわるをしたい魂胆があった。

キリストは例によって直接には応えず、イザヤ書や詩編など明確に預言されている
箇所ではなく、分かりやすいヨナ書の例を出し、ヨナがアッシリア(今のイラクの北部
にBC7世紀頃栄えた国)の都市ニネベへ宣教せよと命じられたのに逃げた。

これは、モーセやエレミヤも同じように「自分にはできないと」断るが、結果的には
神に用いられる。ヨナも船にまで乗って逃げるが、その船が嵐に遭い、遭難しそう
になる。これはヨナのせいだと告白し投げ出してくれと言ったのでほうり出すと嵐は

静まった。ヨナは巨大な魚に飲み込まれ「三日三晩」腹の中にいたが、ヨナガ神に
悔い改めると、魚はヨナを陸地に吐き出した。そこで、ニネベに行き、異邦人である
彼らに「この町は悪で滅びる」と告げると彼らは悪から離れ神を信じたので神は救った。

この「三日三晩」と言うのは、キリストが十字架につけられ、葬られたが三日三晩の
後復活したに重ねた。このようにもっと(旧約)聖書を読めば分かることをいちいち
聞くなと遠まわしに答えた。また、ソロモンの例を出したのはソロモン王の全盛時代

世界中に名が伝わり「ソロモンの知恵」を聞くために世界中から人々がやって来たが
キリストはソロモンにまさると言ったが、果たして学者たちには理解できたか、疑問で
ある。いや、ますます殺す思いを増していったであろう。



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 ベルゼブルイメージ図

「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに
連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるように
なった。・・・しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、

『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せは
しない』と言った。イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。『どんな国
でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい。どんな町でも家でも、内輪で争えば

成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。
そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしが
ベルゼブルの力で悪魔を追い出すのなら、

あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたた
ちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであ
れば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。』」 

 (マタイ 12章 22‐28節より)

この箇所は「ベルゼブル」という言葉が出て来て、話が分かりにくい。古代の
イスラエルでは悪霊の頭をベルゼブルと言っていたようだ。悪魔とか悪霊と
考える方が分かりやすい。目が見えずとか口が利けない人は皆、悪霊の

せいだと人々は思っていて、キリストのいやしの力に驚いていた。ところが、
またしても、ファリサイ派の人々は難癖をつけて来た。「キリストは悪霊の
力で病気を治している」と。キリストを追い込むためだ。

キリストは見事に反論した。難しい理屈ではなく、当たり前の話の例を出して
悪霊とか同じ仲間同士で争えば、内輪もめになり、国や地方、家族間でも
うまくいかず荒れ果てる。こんな例は今日でも至るところにみる。例えば

政党での争い。今の政権与党が間違いをすれば、それに代わる野党が結束
して、政権交代を果たしていくべきなのに、内輪もめに明け暮れ、一つにまと
まろうとはしない。国民からも期待されていない。会社ももめればつぶれる。

キリストは神から遣わされ、神の霊の力でいやしている。神の国はすでにこの
地上に来ているのが分からないのかと、ファリサイ派の人々にさとした。この後
「人の犯す罪は赦されるが、聖霊に言い逆らう者は永遠に赦されない」と言った。



「大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分の
ことを言いふらさないようにと戒められた。それは、預言者イザヤ
を通して言われていたことが実現するためであった。

『見よ、わたしの選んだ僕。  わたしの心に適った愛する者。
この僕にわたしの霊を授ける。  彼は異邦人に正義を知らせる。
彼は争わず、叫ばず、  その声を聞く者は大通りにはいない。

正義を勝利に導くまで、  彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる
灯心を消さない。  異邦人は彼の名に望みをかける。』」

 (マタイ 12章 15‐21節より)

手の不自由な人をいやした後、大勢の群集が従った。キリストは
御利益と思われる事を恐れず、皆いやしたとある。愛の行為である。
その事を言いふらさないようにと戒めた。

他の御利益宗教なら大いに宣伝する点である。この点が大いに違う。
これは「右手でした事を左手に知らせるな」 (11月10日記事)である
善行は黙ってし、人に自慢したり、いいふらすためにするなとの教え。

しかし、この今日の箇所はわざわざイザヤの預言(イザヤ書42章)から
引用してより深い意味を示している。「わたしの選んだ僕」とはメシア。
「彼は異邦人に正義を知らせる」とは、全世界に福音を知らせる。

「彼は争わず、叫ばず」「正義を勝利に導くまで・・・灯心を消さない」
メシア:キリストは無抵抗でどんなに迫害を受けようとも、十字架に
かかり、復活するまでは、その事業を成し遂げる。

病をいやすことはその愛の仕事の一過程である。むしろキリストの
奇跡だけを大げさに伝えられると、マジシャンのような存在とか、
占い師のような風評・誤解を人々に与えることをおそれ、戒めた。

キリストの存在とかその生涯を述べると、切りがないほど奥深く、
語り切れない。クリスマスだけがキリストの物語ではない。「異邦
人は彼の名に望みをかける」2千年後の現在、事実福音は

全世界に伝えられ、望みを現実にし、多くの人々がキリストの救い
の業にあずかっている。ただ残念なことに「その声を聞く者は大通り
にはいない」とあるように、福音に無関心な者もいるのは確かである。

「・・・弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、『御覧なさい。あなた
の弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている。』と言った。

そこで、イエスは言われた。『ダビデが自分も空腹だったときに・・・
食べてはならない供え物のパンを食べたではないか。・・・言って
おくが神殿よりも偉大なものがここにある。

もし、「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」という
言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめ
なかったであろう。人の子は安息日の主なのである。』・・・・・・・

 (マタイ 12章 1‐8節より)

「・・・片手の萎えた(なえた)人がいた。人々はイエスを訴えようと思
って、『安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか』と尋ねた。
そこで、イエスは言われた。『あなたたちのうち、だれか羊を一匹持って

いて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者が
いるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日
に善いことをするのは許されている。そして、その人に、『手を伸ばしな

さい』と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相
談した。」 
(マタイ 12章 9‐14節より)

モーセの十戒には「週に一度の安息日にはいかなる仕事もするな」と
書いてある。この元は創世記にあるように、神が天地のあらゆる創造物
を造られたとき、7日目に安息された。と書いてあるように、

モーセもそのように定めた。しかし、後のユダヤ教の指導者ファリサイ派の
人々はこの掟を勝手に細かくし、自分たちは守れないのに、人々に強要し、
それに違反する者、特にキリストを目の仇(かたき)にして、細かい事に

口を挟み、機会があれば殺そうとしていた。その時の話が今日の出来事。
弟子たちが麦の穂を食べたのを見て、厳しくとがめた。キリストは「杓子定
規的に細かい事はいうな。場合によっては例外もある」とダビデの事を言った。

安息日の本当の意味は「いけにえみたいに人を苦しめるのではなく。憐みで
ある」といった。ファリサイ派はこの言葉・憐みを無視する。その後キリストは
すぐに会堂に入り、手が萎えた人を治した。人々はファリサイ派に洗脳されて、

恐る恐る「安息日に病気を治すのは、律法で許されているか」と尋ねた。彼ら
はファリサイ派の人のように頑固ではなかったので、キリストは「もしも羊が穴
に落ちたら助けるだろう」と安心させ、安息日は人の事が優先すると説いた。





無題
「イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。
これらのこと(福音)を知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者に
お示しになりました。・・・父からわたしに任せられています。

・・・子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた
者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、

わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの
軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』」

 (マタイ 11章 25‐30節より)


この箇所も有名なところであり、この言葉で救われたと言う人は多い。
天の主である神とキリストはまさに父子の関係であり、聖霊とともに
この言葉は直接聖書には出てこないが、三位一体という。

知恵ある者、賢い者とは文字通り賢く頭が良い者ではなく、ユダヤ教の
頑固でライドが高い指導者を遠まわしに言っている。福音は幼子のような
素直で純真な者に示したとある。(旧約箴言には知恵と言う言葉が多くある)

軛(くびき)とは古代では牛馬2頭を繋げるために木製の棒状器具の事を
言い自由を束縛するとの意味もある。これは家畜にとってはつらい器具で
あったが、キリストの課す軛は重荷とは思わないほどに、軽く安らぎを得る
から安心せよと言っている。

また、ここでは、珍しく自分のことを「柔和で謙遜な者」と表している。事実
そうであるから必要で、確実に自分の事を伝えるときには曖昧な自己紹介
はせず、事実あるがままに言ったのであろう。嫌味は感じない。


「『笛を吹いたのに、 踊ってくれなかった。 葬式の歌をうたったのに、
悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、
『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、

人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や
罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

 (マタイ 11章 16‐19節より)

ここは、キリストの愚痴話になっているみたいだが、意味はしっかりしている。
キリストは、例えや間接的な話で語る。世間ではヨハネのことを正しく理解せず
「悪霊に取りつかれている」と悪口を言うがこれは無知とねたみである。

キリストは自分のことをはっきり「メシア・神の一人子」とは言わず、「人の子」と
謙虚に世間と同じ目線で話すことが多い。ヨハネのように禁欲的ではなく、普通
に食事をしていた。またヨハネ書(2章)のカナでの婚礼の席で水をぶどう酒に

変えた話は有名である。ここからや、よく徴税人などと食事をしていたから、その
席では当然ぶどう酒も出て飲んでいたであろう。その話を大食漢と大げさに話を
もっていくほどに、ユーモアと余裕を持って話をする。

ここで、話しの中心は「笛を吹いたのに、躍ってくれなかった」の子供たちがよく
歌っている歌を例えにして、世の中の無関心さと、「葬式のときにも悲しまない」
人の死を単なる形式にしかとらえず、心の底から悲しまない姿を皮肉る。

実際キリストが捕えられ、十字架上で死んだ時も野次馬根性で見物には来るが
本当にその意味を理解しない人々をこの時から感じていたのかもしれない。
十字架の意味どころか、キリストの数々の福音の言葉やいやしの業もそうだ。 

「知恵の正しさは、その働きによって証明される」とキリストのこの世での数々の
働きで証明されているにも関わらず、彼ら、特に一部の特権階級の指導者たちは
ケチをつけ、足を引っ張るから、目を覚ましてほしいとの思いが伝わってくる。

「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子を
送って、尋ねさせた。『来たるべき方は、あなたでしょうか。それともほかの方
を待たなければなりませんか。』イエスはお答えになった。『行って、見聞き

していることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人
は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、
死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。

わたしにつまずかない人は幸いである。ヨハネの弟子が帰ると、イエスは群衆に
ヨハネについて話し始められた。『あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。
風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。

しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。
そうだ。言っておく。預言者以上の者である。「見よ、わたしはあなたより先に使者
を遣わし、あなたの前に道を準備させよう
」(旧約マラキ書3‐1)と書いてあるのは、

この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネ
より偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも彼よりは偉大で
ある。」 
 (マタイ 11章 2‐11節より)

ヨハネが捕えられた話は11月2日の投稿にあるが、キリストはあまり詳しく語らなか
った。ここでは、ヨハネが獄中からキリストが(自分は知りながらあえて確認の使者を
よこした)来たるべき方とは、救世主メシアのことで「メシアはあなたですか」と聞いた。

キリストはいつものパターンで直接応えず、遠まわしに親切に応えている。一言「自分は
メシアだ」言えばよいのに、自分のなした業を語り、その上、群衆にヨハネのことを最大級
の言葉で褒めた。預言者の中でも最大の者だと言った。

ここの文章は味のない言葉ではなく、山上の説教のように詩的な表現である。ベストセラー
と言われるゆえんである。それにもかかわらず、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大
である」と水をさすようなことを言っている。

それを説明するのは簡単ではないが、この地上の最大級に値打ちがあるものも、天では
次元が違うので、価値観が違うのである。それは永遠的に絶対的に価値があるから、地
上の最も偉大な者でも、天では最も小さな者の方が偉大だ。神の国はそれほど尊い。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、
わたしを遣わされた方(神)を受け入れるのである。・・・はっきり言っておく。
わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ま
せてくれる人は、必ずその報いを受ける。」 
(マタイ 10章 40‐42節より)

前回の厳しいハードルから一転して、福音の易しいメッセージが語られている。
使徒たちを信じて受け入れてくれる人は、キリストを受け入れ、キリストを受け
入れる人は、キリストを遣わした神を受け入れるのと同じだという。

・・・の箇所は預言者とか正しい人を受け入れる人も同じであるという。福音を
信じて受け入れてくれる人とは、まだ未熟な小さな弟子・使徒、そんな者でも
受け入れてくれる人、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人、

福音を疑わずに素直に信じてくれる人は、使徒、キリスト、神を信じるのと同じ
なので、その人はどんなに小さな行為(水一杯をくれる)でも神から報いを受け
ると言っている。信仰とは大きな行為より愛の態度・姿勢を示す事である。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために
来たからである。人をその父に、 娘を母に、 嫁をしゅうとめに。

こうして、自分の家族の者が敵となる。 わたしよりも父や母を愛する者は、
わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふ
さわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、

わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたし
のために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

 (マタイ10章 34‐39節より)

この前項では、「キリストを人々の前で仲間と言い表す者は、キリストも神の
前で仲間と言い表し、人々の前で、キリストを知らないと言う者は、キリストも
神の前で、その人を知らないと言う」という意味のことが記されている。

これは受けようによっては、(キリスト教の)福音も排他的、自分ファーストと
取られるおそれがあるが、決してそんなことを言っているのではなく、唯一の
神以外の救いの対象にならない偶像崇拝に落ち入るなと言っている。

きょうのこの箇所は誰でもがつまずくおそれがある難しい箇所である。キリストが
この世に来たのは、平和ではなく、剣をもたらすためとか、父母やきょうだい、
親族が仲たがいするために来たと言われれば「はい」とは即答できない。

だが、次のくだりを読めば、納得する。神、キリストよりも親族を愛する、つまり
親族を神のように敬うのは偶像礼拝につながる。これは以前、「神と富」について
書いた時も、富がこの世で不必要ではなく、富を神と同然に、偶像礼拝するなと

同じ考えになる。父母、きょうだいなど親族を頼りにし過ぎて本当の救い主である
神やキリストをおろそかにするなということ。また、「十字架を担え」とか「キリスト
のために命を失う」とは自分もキリストと同じように十字架を担い、殉教をせよと

取るならば、大きな誤解である。それであるならばキリストを信じ、福音を受け入
れる者はいないし、「信仰義認(信仰のみで救われる)」とは相反する、「行為に
よってのみ救われる」という「善行義認」になる。正しい福音理解が必要だ。

但し、これは全くの出鱈目が書かれている訳ではない。現実にこの世の出来事を
見れば、毎日のように、親族間での刃傷沙汰が行われている。また、普通の人で
は到底真似が出来ないほど難行、苦行をしている人は存在する。

今日の箇所は弟子たちが宣教の業に行くときの注意として必要な事柄であって
キリストの愛の籠った真実の伝言である。誤解を招く言葉だが、最後に「キリストの
ために命を失う(くらいの覚悟をもつ)者はかえって命を得る」としめている。

「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、
あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの

髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、
たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」 
(マタイ 10章29‐31節より)

2羽の雀が1アサリオンとは、日給(1デナリオン)に相当するローマの銅貨
(8千円とすると)の16分の1で5百円とする。1羽だと250円。検索すると、
2羽が1アサリオンで、もっとも値打ちがない例えのように解説しているが、

1羽が250円だとすると、そんなに値打ちが無いとは言い切れない。ここでは
そんな値打ちがないことを強調しているのではなく、あの小さな雀さえ、父なる
神のお許しによって生きている。まして人は髪の毛1本でも数えられ大事にさ

れている。人は雀よりもはるかにまさっているから、強制的に神に支配されて
いると誤解せずに、身も心も気にかけてくださる神を畏れ、敬い、安心して
日々を過ごしなさいという愛のメッセージが記されている。

「弟子は師にまさるものではなく、僕(しもべ)は主人にまさるものではない。
弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人
がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われる。」

 (マタイ 9章24‐25節より)

弟子は師にまさるものではないとは、当たり前のことで、ここではわざわざ
書かれているのは、本来はキリストは神の一人子だからそれにまさる者は
この世に存在しないはずなのに、ユダヤ教の指導者は自分がキリストより

主、師であるようにふるまっていたので、このように遠まわしに言ったのかも
知れない。師のようになれば十分であるとは、彼らがユダヤ教の指導者なら
ば、傲慢にならず謙虚な師であればよいのに行き過ぎているとの皮肉であろう。

次に「家の主人がベルゼブル・・・その家族はもっとひどく言われる」とは何の事か
さっぱり分からない。ベルゼベルとは12章に「ブルゼブル論争」として記されてい
る。ベルゼブルというよりブルゼブルという方が正しいみたいだが翻訳間違いか。

それよりどういう意味か。ブルゼブルとは悪霊の頭(かしら)であるが、家の主人が
ブルゼブル(悪霊のかしら)と言われるなら、その家は神と違い、悪霊に支配されて
いるのだから、その僕的な家族はもっとひどいという。これも遠まわしに、間違った

ユダヤ教の指導者に支配されているユダヤ教徒はまるで悪霊に支配いるかのよう
に良くなるはずはないと言っているのではないか。現代でも優れた政治家が政界を
リードしていれば幸いだが、悪徳政治家が実権を握っていれば国民は不幸である。


「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込む
ようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
・・・また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、

彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう
言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えら
れる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語って

くださる父の霊である。・・・また、わたしの名のために、あなたがたは
すべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。」

 (マタイ 10章 16‐23節より)

ここには前項のように、初心者向きの話ではなく、一転してハードルが
高くなり、迫害について記されている。ここだけ読めば、やはり聖書は
難しくてついていけないと思う人が多いかもしれない。

しかし、よく読むと決して難しいことばかりが書かれている訳ではない。
福音を宣べ伝えるときは易しく、楽なことばかりではない。狼つまり、
ユダヤ教の一部エリートやローマの傲慢な支配者などが、

福音を何も知らずに、まるでいじめのように無理解で迫害をしてくるだろう。
それは後々キリスト自身がそのような扱いを受け、十字架にかかる予告。
今すぐ、使徒たちがこのようになるという訳ではなく、そんな覚悟も必要と。

しかし、福音信仰は難行苦行が目的ではないから、神の霊に導かれて、言う
べきことは天より与えられる。一時は耐え忍べば必ず救われる。また無理せ
ず、時には他の町へ逃げて行けと愛なる忠告もしている。

この他、兄弟や肉親同士でも苛烈な争いをするときもあると予告的に述べて
いる箇所があるが、あえて省略した。つまずく度合いが大きいからである。
説明するには長い丁寧な文章が必要だからまた機会があれば書きたい。

なお、「蛇のように賢く」とはアダムとエバを誘惑し、罪に落とした憎むべき
蛇なのに、キリストは例えで語るときはそんなことに頓着なく分かり易さを
優先している。「鳩のように素直に」はそのまま受け取れる。

「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。
『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入っては
ならない。むしろ、イスラエルの失われた羊のところへ行きなさい。

行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者
を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払い
なさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。・・・

町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つ
ときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、「平和が
あるように」と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、

あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、
その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、
あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、

その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落しなさい。はっきり言っておく。
裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。』」

 (マタイ 10章 5‐15より)

12人の使徒たちが宣教の初仕事をするに当たって、キリストはあまりハー
ドルの高いことは要求しなかった。例えば異邦人の所には行くなと言った。
これは福音が全世界の人々に伝えるべきもので、後にそのようになったが、

最初は「迷える同胞のイスラエル人のところ」へ優先して行くようにと。また、
サマリア人は元々イスラエルに属していたのに後に外国の支配を受け、
偶像礼拝信仰をすると嫌われ交流を断っていたから無理して行くなと。

但し、キリストは例外でそんな事はおかまいなく、サマリア人を平等に扱った。
ただ、使徒には「待った」をかけた。彼らには徐々に教育をほどこし、最低必要
なことのみを教えた。まずはお金は持たず、よく調べ、信頼ができる人の家を

選び、「平和があるように」と挨拶し、そこを拠点として活動を続ける。やみくもに
活動するのではなく、綿密に計画を立てる。もし、使徒たちを歓迎せず、耳を
傾けない者がいたら「埃(ほこり)を払って」、争わず無抵抗で出て行く。

そんな町や家はやがて、神自身が裁かれるから、かまわなくてよい。つまり、
「復讐は神がされる」からである。そんなとき、旧約に出てくる悪なる町の
ソドムやゴモラが壊滅した以上の罰を受けると怖いような言葉を発した。

これにつまずく者がいるかも知れないが、この世はいつまでも続くものでは
なく、最後の審判の日がやってくると聖書には書いてある。悪は必ず滅び、
善は報われる。使徒信条には「生ける者と死ねる者とを審き」とある。


「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けに
なった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその

兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロ
マイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党の
シモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。」

 (マタイ 10章 1‐4節より)

10章を読むと、この書が今の時代のSNSみたいにやたらと写真を
載せ、人の気持ちを引き付けるためだけではなく、奇跡だけを
羅列してしていないのが分かる。キリストの系図から始まり、

キリストの誕生の次第を。次にバプテスマのヨハネによる予告。
サタンの誘惑、それから、山上の説教、一人だけの宣教、4人の
弟子から選んで、段々と弟子たちが集まってきて、そこで、

12使徒を選ぶと言う組織を作った。ユダヤ教から見れば異端と映る
新しい団体を立ち上げて、ユダヤ教からは嫉妬と迫害を受けながら
著しく異なった、かなり画期的な宣教活動を続けていく。

その発端が今日の項目である。いちいち、父はだれそれと言っている
のはモーセの十戒にある「父母を敬え」との父との関係を重く大事に見、
また、シモン、ヤコブ、ユダ(ルカ書には二人のユダとある)のように

同じ名前が重なったので、このように分かりやすく記したのであろう。
それにしても、悪印象や誤解をおそれず裏切り者のユダの名前も記して
いる。何か都合が悪くなれば削除したとかいうどこかの団体とは違う。

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